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明治元年創業!まつだ松林堂〜遠野名菓“明がらす”に込められた思い〜

みなさん!おはようでがんす!
岩手県遠野市で活動しているライターの小田切です。

今僕は、遠野名菓“明がらす(あけがらす)”をいただきながら、優雅な午後のティータイムを過ごしています。

服装と表情にツッコミをいれてください

インターネットで「遠野 お土産」と検索すると、一番先に目に止まるのがこちらの“明がらす”。食べたことがある方もいらっしゃるのでは。

この“明がらす”は遠野市内の複数のお菓子屋さんで製造されていますが、元祖は一日市(ひといち)通りにあるまつだ松林堂。今年で創業155年を迎える老舗です。

歴史を感じる店構え

最近では、看板商品の“明がらす”や”ぶどう飴”を製造する様子をおさめたリール動画がInstagramでバズって有名に。なんと中には710万回以上再生されたものも。

こちらの“明がらす”。「どんなお菓子なんですか?」と聞かれると、なんとも一言では言い表せない一品です。米粉の優しい甘さと半生の食感がなんとも言えず、くるみと胡麻の風味が香ばしくクセになります。僕もよく6個入りを買いますが、1日でペロっと食べてしまうことも。

ということで!今回は“明がらす”の魅力とおいしさをみなさんにお伝えするために、まつだ松林堂さんに取材してきました。遠野で150年以上、連綿と受け継がれてきたその歴史とドラマに迫ります!

明がらすってどんなお菓子?

明治元年創業のまつだ松林堂。現在、お店を切り盛りされているのは、四代目・松田勝夫さんと奥様の松田和子さん。五代目の松田惠市さんと奥様の松田希実さんです。

左から)惠市さん、希実さん、和子さん、勝夫さん

僕も明がらすが大好きでして!この唯一無二のお菓子を、みなさんはどのように紹介していますか?

一言で味をイメージしてもらうのはなかなか大変ですね。みなさんが知っている羊羹とも煎餅とも、お餅とも似ていませんし。

分類としては半生菓子です。食感は、お餅とらくがんの中間のようなしっとりさです。

優しい甘さなので、食べたことがない方には想像しづらい味と食感かもしれないなと、私たちも思っています。

“明がらす”は、米粉とゴマとくるみを練ったしっとりした生地を、もちっとした雲平細工で包んだもの。今まで食べたお菓子の中に、同じようなものは見当たりません。

うちの息子の友達は、最近急にハマったようで。定期的に買いに来るようになりました。

わかります!食べているとクルミと胡麻の香ばしさ、ほんのりとした甘みがクセになってくるんですよね。

材料のほとんどは米粉なので、体にも優しいお菓子です。

米粉はアミノ酸スコアも高いので、運動前後のエネルギー摂取にいいですね!実は、僕はマラソンの練習前やスイミングに行く前に食べてます。

お店には、若者からお年を召した方まで、幅広い世代が“明がらす”を買い求めに訪れます。これほどまで愛されている“明がらす”の魅力をもっと伝えるために、製造工程を見学させていただきました。

明がらす製造工場に潜入!

取材させていただいたのは、1月末。遠野は冬真っ只中。製造工場の中は、冷んやりと冬の寒さを感じます。

工場の中、寒いですね。

そうなんです。冬は寒くて、夏は暑いんです。

エアコンがありますが、使わないんですか?

エアコンをつけると、生地が乾燥してしまうので製造中はつけません。

胡麻を炒ったり、シロップを煮るために窯を炊いています。そのため夏は特に暑いですよ。

生地に練り込むシロップの粘度を確かめる惠市さん

工場は創業当時から改装を重ねています。歴史を感じさせる道具も多くあります。こちらの秤は、なんと単位が「匁(もんめ)」です。今でも使用している現役の道具です。

ずっとこの秤を使っているので、お菓子は匁単位でしか作れません。

秤の目盛。確かに「匁」です

昔から使用している道具もあれば、新しく入れ替えて使っているものも。窯の火は、現在灯油バーナーの火を使用していますが、勝夫さんが若い頃は毎日炭から火を起こしていたと言います。

『今は楽になった』と親父に言われます。道具以外にも、親父は婿養子でしたし色々と気を使っていたのかもしれません。昔は、母も製造を手伝っていて。生地を練っている母に背負われていたのを覚えています。

米粉、くるみ、シロップ、胡麻を練り上げる。
惠市さんがその日の気温や湿度に適した生地の硬さになっているか確認する

現在は、勝夫さんと惠市さん、パートさんの合計三人で“明がらす”製造を行っています。メインの勝夫さんと惠市さんの動きは、まさに阿吽の呼吸。言葉に出さずとも、お互いの一手先を読んで連携しています。


すごい速さで作業が進んでいきますね。

私も20年やっていますからね。次に何をしなくちゃけないか体に染み付いてます。

惠市が進学で岩手を離れていた間は、私一人で製造したこともあります。


お一人で!?二人以上でないと難しい作業に見えます。

惠市さんが高校生の頃、お店を継ぐか迷っていたそうです。それでも両親からは「継いでほしい」と言われたことは一度もないといいます。

外の世界を知るためにと大学に進学。在学中にさまざまな経験をする中で「父と母が苦労して引き継いできた店を、ここで途絶えさえるわけにはいかない」とお店を継ぐことを決意しました。

練り上がった生地を四等分し、成形していく


まだ、全工程を一人だけで製造したことはありません。親父が腰の手術をして入院している時もパートさんがいましたらね。全て一人でやるというのは大変なことだろうと思うけど、いつかはそういう時が来るかもしれません。

別に練り上げた雲平細工を薄く延ばしていく
細長く成形した生地を雲平細工で包んでいく。お二人の阿吽の呼吸に息を呑む
巻き簾で波形模様をつけていく様子

ここまで成形したのち、一晩寝かせてからスライサーにかけます。あっという間に約900個分の“明がらす”が出来上がりました。繁忙期はこの工程を1日2~3回繰り返します。

一定の長さで切り揃える。続きは翌日

できたばかりの明がらすを試食させていただきました!

いわゆる”はしっこ”をいただきました

いつもより香ばしい気がします!

胡麻も煎りたてですからね。作りたては材料が馴染んでいないので、素材それぞれの味を感じると思います。一晩寝かせて馴染むと、味が調和していきます。

なるほど〜!出来立ても美味しいですが、一晩寝かせることで味のまとまりがでるんですね。

お二人の手捌きはまさに職人技。150年以上続く菓子作りの技術を目の当たりしました。

始まりは「鹿肉の砂糖漬け」!?まつだ松林堂のはじまり

まつだ松林堂の初代は遠野南部家に仕えた武士・松田隆(りゅう)さん。明治維新の後、武士という職がなくなる際に選んだ商売が菓子屋でした。

創業当時“明がらす”は、“くるみ糖”という商品名で売られていました。形も現在のかまぼこ型ではなく、まるい形をしていたそうです。

初代はいろいろなお菓子を考案し、それを職人たちが作っていました。中には、どうやら変わったお菓子もあったみたいです。

変わったお菓子とは?

鹿肉の砂糖漬けです。


鹿肉の砂糖漬け?!どんなお菓子だったんですか?

それが、私たちもよく分からないんです。

菓子を研究している京都の大学講師から問い合わせがあったそうです。曰く「東京の菓子会社の資料館に、第一回菓子大博覧会の資料が残っている。そこには遠野の松田隆という人物が“鹿肉の砂糖漬け”を出品していたようですが、何か記録は残っていますか」と。

しかし、創業時からの資料や道具が納められていた蔵は、2年前に起きた火事で焼けてしまい、それらしい資料は残っていなかったといいます。


全部灰になってしまいましたから。どんなものだったのか。

名前だけ聞くと、美味しくはなさそうですけど。

どんなものだったのか気になりますね(笑)

初代・隆さんの後を継いだのが二代目・桂次郎さん。この二代目が“くるみ糖”と呼ばれていたお菓子を“明がらす”と命名したそうです。

このお菓子を名物として世に送り出すために、特徴的な名前をつけようという提案だったようです。

そうして“明がらす”と名付けられたこのお菓子。白い菓子生地が白んでいく朝焼けの空を、くるみの断面が飛び立つからすを表しているように見えることから考案された名前です。

巻き簾でつけた波形が朝陽を模している

二代目は、名称を決めるために親交のあった郷土史家や遠野出身の人類学者・伊能嘉矩に相談し、検討を重ねたそうです。

日本人にとって、五文字の名前は響きが良いそうですね。“明がらす”という言葉は、伝統芸能の新内節や落語の演目にもあるので、相応しいだろうとなったようです。

落語の『明烏』は僕も好きな演目です。やはりそこにもルーツがあったのですね。

それと、二代目の心にはいつも遠野のお城山から、朝夕にカラスが飛び立つ情景があったのだと思います。

お菓子の断面からも、遠野の風景が浮かび上がる。二代目によって、とても素敵な名前がつけられました。そして以降“明がらす”の名前は変わることなく、今日まで来ています。

長い歴史には大きな波乱も〜激動の歴史〜

しかし、二代目・桂次郎さんは38歳という若さでこの世を去ります。引き継いだのは四人息子の次男・友樹(ともじゅ)さんでした。

店内に飾られた大正時代の写真。三人並ぶ子の真ん中が友樹さん

三代目の友樹は、私の父です。父は若い頃師範学校にいかないかと勧められるほど、読書や学問が好きだったようです。

聡明な方だったのですね。この時代は、パン屋や洋菓子なども焼いていたと聞いています。

父が引き継いだ頃は、曜日毎にパンを焼いたり、飴やせんべい、どら焼きも作っていたそうです。

今は店舗で製造してる商品は明がらす、ぶどう飴、甘氷の3種類ですよね。いつ頃、絞っていったんでしょうか。

私の父の代です。父は遠野の菓子組合の組合長を務めていました。市内の各菓子店で看板商品を持つことを推奨しました。それでうちは、“明がらす”を看板商品として押し出すことにしたんです。

お父さまにはどんな狙いがあったのでしょうか。

「いろいろな商品を並べれば店頭は賑やかで見栄えも良いいけど、流行物は廃りも大きいんだぞ」って。安定した需要があるものを、きちんとしたルートに収めることで、末長くご愛顧いただけるということのようです。

松林堂の店頭の様子

都心では、流行のスイーツ専門店が出来ては消えをくり返しています。三代目の教えは、一つの土地で商売を続けていくためには、長く愛される商品を安定して作り続けることが大切なのだと教えてくれます。

150年以上続いるわけですから、お父さまのお考えは正しかったということが証明されていますね。

私も若い頃は、もっといろいろな商品をやったらいいのにって思ってたんです。でも、だんだんと父の言っていたことがわかるようになりました。

改めてそのことを実感したエピソードが。
2011年の東日本大震災からしばらく、被害の大きかった沿岸のご遺体を遠野の火葬場で荼毘に伏すことが少なくなかったそうです。

ある時、沿岸から火葬のために来た遺族の方たちの乗るバスが、松林堂の前で停車しました。「亡くなった祖父がいつも松林堂の明がらすをお土産に買って帰ってきてくれました。最後にお供えしたいんです」とおっしゃったそうです。

お代はいただかずに明がらすをお渡ししました。普段は意識してませんでしたが、沿岸にもずいぶん常連さんがいらっしゃるんだなと実感しました。本当にありがたいことです。

多くのお客様から『祖父母や両親がよく買って来てくれた思い出の品です』というメールやお便りをいただき、歴史があるということを実感しています。

明治から続く松林堂の“明がらす”は、世代を超えて愛されるお菓子に。しかし、その歴史の中には、製造が途絶えそうになったこともあったそうです。

生きることが菓子作りにつながっていく

二代目が早逝されたことも衝撃だっと思います。歴史の中には危機的な状況もあったのでしょうか。

実は私の父も、51歳と若くして亡くなりました。主人が婿に来たのは父が亡くなって一年後でした。製造の技術が途絶えそうになっていた時なんです。

三代目を手伝っていた職人もいたのですが、正確に味を引き継ぐために義母さんと和子さんにも教えてもらい、何度も味見をしてもらいながら学びました。

もともと宮城県出身の勝夫さんは、東京の会社に就職し働いていました。いつか、サラリーマンを辞めて蕎麦職人になろうかと考えていた時に、縁があって和子さんと知り合い菓子職人になることとに。

そこで危うく途切れるところだったんです。祖父が亡くなり、祖母と母でなんとか店を守り、父が継いでくれたんです。大変だったと思います。

また先ほども話題に登りましたが、二年前に松林堂の大事な道具などをしまっていた蔵が、近所で起きた火事が燃え移り全焼してしまうという大事件が。昔から使っていた道具や資料、包装紙など多くのものが焼けてしまいました

150年という歴史には重みがあります。その歴史を失ってしまったという喪失感がとても大きくて。正直、今でも引きずっています。

まだ蔵がある気がしてしまって。いまだに道具を取りにいってしまうことがあります。

100年以上、そこにあったものですもんね。受け入れられないことだと思います。

その中でも、希望はあって。うちが代々引き継いできた雛人形のうち女雛と男雛の2体が、奇跡的に焼け跡から出て来たんです。本当に大事にしていたものだったので。「まだ、やれる。ここで終わるわけにはいかない」という気持ちになりました。

奇跡的に救われた二体は今もひな祭りの季節に店舗の二階に飾られる。
火事で焼けてしまう前は、五人囃子が三組もあるほど立派な雛人形だった。
男雛と女雛のみが奇跡的に救われた。


私にとって菓子作りは仕事と言うより“生業”だと思っています。私が生きて、生活していることが全て菓子作りに直結しています。日々菓子を作ることがそのまま、店を守り家を守ることそのものなんです。

先人の時代から、いくつもの荒波が押し寄せてきた松林堂。惠市さんたちも辛く大きな困難を乗り越えました。惠市さんは、気を引き締めるように「その度に大切なことに気がつき頑張ることができた」と語ります。

火事の後もそうでしたが、たくさんのお客様が私たちを支えてくださいました。支えてくださるお客様たちを見て、自分たちはただお菓子を作ってきたわけではないんだと気がつきました

長い歴史の中で“明がらす”は、人々の思い出をずっと繋ぐ大切なひとつの文化に。

これからもずっと続いていくんですね。

そうですね。息子たちの誰かが継いでくれれば嬉しいんですけど。それぞれの思い描くことに挑戦していってもらいたいです。いつかきっと私たちのDNAが目覚めてくれたらと思ってます(笑)

まとめ

遠野の銘菓・明がらす。
知れば知るほど、このお菓子には一言では表現ができない魅力が詰まっていることがわかりました。150年以上続くまつだ松林堂の歴史の中で、多くの人々に愛されてきました。

現在の上皇上皇后両陛下が遠野にいらした際に召し上がっていただけたことや、表千家の会報誌で「今後も残したい菓子百選」として掲載していただいたり。嬉しいこともたくさんあります。

長く商売を続けていくっていうは大変なことです。しかし、いろんな人と出会うことができる喜びがあります。いい生き方だなと。本当に皆さまのおかげなんです。

みなさんも、“明がらす”をゆっくりと味わってみてください。その向こうに、明治元年から引き継がれてきたまつだ松林堂の、地元遠野を思う温かな思いを感じることができると思います!

これからも”明がらす”は遠野を代表するお菓子として、多くの人々に愛され続けることでしょう。

<まつだ松林堂オンラインショップ>

遠野市のふるさと納税には、まつだ松林堂のお菓子の返礼品もあります!

この記事を書いたのは
オダギリダイキ
岩手県遠野市在住ライター|美味しいものと怪談をこよなく愛している
twitter: https://twitter.com/odagiri_tonob

移住してから“明がらす”のファンになり、何気なくパクパク食べていたのですが、その歴史に触れることで明がらすに対する有り難みが倍増しました。お聞きしたなかには、たくさんの面白い話や興味深い内容があり、全部を載せたかったのですが、文字数の関係で断念しました。また別の機会に、松林堂さんの記事を書けたらと思いました。